1877(明治10)年4月に創設した東京大学は、1886(明治19)年3月、「帝国大学」と改組改称いたしました。それまでの9年間、東京大学総理であった加藤弘之先生が退任されたのを機に、先生に対する謝恩会が開かれました。
これが「学士会」のはじまりです。のちに、旧帝国大学(現在の国立七大学[※])出身者の親睦と知識交流を目的とした場に発展して行きました。
※国立七大学とは北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学のこと。
学士会は、1913(大正2)年1月に初めて会館と呼べる西洋風の木造2階建ての施設を創建しましたが、同年2月、神田三崎町で起きた大火により焼失。この復興に向けて準備を進め、1923(大正12)年9月1日、基礎工事を開始する予定でしたが、奇しくもその日、関東大震災に襲われて計画は延期。その上、それまで利用していた仮会館も焼失しました。焼失と再建を繰り返し、ついに1928(昭和3)年、現在の学士会館が建設されました。
長い歴史のなかで、様々な出来事もありました。1936(昭和11)年の2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれ、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、翌年以降、会館屋上に高射機関銃陣地が設けられました。1945(昭和20)年には、会館の一部が空襲の被害を受ける一方、館内のいくつかの部屋を日本軍に提供することになりました。そして終戦後の同年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されて閉館。高級将校の宿舎や将校倶楽部として使用されていましたが、1956(昭和31)年7月に返還されました。
宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する学士会館は、学士会会員のための倶楽部施設ですが、現在では一部施設を除いて一般利用が可能となり、会員以外の多くの方々にご愛用いただいております。
学士会館は、関東大震災後に建築された震災復興建築となります。外壁が昭和初期に流行したスクラッチタイルで覆われた4階建ての旧館は1926(大正15)年6月に着工、1928(昭和3)年5月20日に開業いたしました。総工費は約106万円。関東大震災の教訓をいかした、当時では極めて珍しい耐震・耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっています。
建築推進の中心となったのは、日本の耐震工学を確立した佐野利器氏。設計者は彼の門下生でもあり、 日本橋高島屋や帝国ホテル新館などを手掛けた高橋貞太郎氏です。旧館を尊重するかのように一歩後退して建つ5階建ての新館は、1937(昭和12)年9月20日に増築開業いたしました。総工費は約60万円。設計者は藤村朗氏です。
学士会館の地盤の基礎には約1300本の松杭が打ち込まれていますが、近年行われた松杭の調査では腐朽は全く見られませんでした。その際、切り出された松杭の一部は、現在会館1階の談話室に展示されています。
斬新、かつモダンで重厚な雰囲気は、85年以上を経た今も大事に継承されており、2003(平成15)年1月、国の有形文化財に登録されました。
学士会館旧館の正面玄関脇には「東京大学発祥の地」 の石碑が建っています。1877(明治10)年4月12日、 この地にあった東京開成学校と、神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併して、東京大学が創立されました。
創立当初は法学部・理学部・文学部の校舎は当地に設けられていましたが、1885(明治18)年までに東京大学は本郷へ移転しました。
この地を我が国最初の大学すなわち「東京大学発祥の地」とし、1991(平成3)年には記念碑が建立されました。
学士会館の敷地内に、野球のボールを握った手の記念碑があります。これは日本に初めて野球を伝えたとされるホーレス・ウィルソン氏の野球殿堂入りを記念して、2003(平成15)年に建立された「日本野球発祥の地」のモニュメントです。
ホーレス・ウィルソン氏は教師として、1871 (明治4)年にアメリカから来日し、1872(明治5)年から6年間、この地で授業のかたわら生徒達に野球を教え、これによって日本全国に野球が広まったといわれています。
記念碑はブロンズ製で、高さ2.37メートル。ボールには世界地図が描かれ、アメリカと日本を縫い目によって結ぶことで“野球の国際化”を表現しています。
同志社大学の創立者として知られる新島襄先生は、1843(天保14)年2月12日(旧暦1月14日)に、学士会館付近の上州(群馬)安中藩江戸屋敷内で生まれました。
この記念碑は生誕100年を記念して、1941(昭和16)年9月27日に建立されました。毎年、生誕日には碑前祭が斎行されています。